ある職人の物語 ― なぜ、私の宝物は誰にも届かなかったのか?

松本の静かな路地裏に、私のお店「ひかり茶房」はあります。
木の扉を開けると、ハーブの清らかな香りがお客様を迎える…はずでした。でも、その扉が開かれることは、日に日に少なくなっていました。
棚に並ぶ、色とりどりのハーブティー。
一つひとつ、私が世界中から選び抜いた最高の茶葉とハーブをブレンドした、かけがえのない宝物たちです。
「月夜のしずく」「森のささやき」…名前をつけ、物語を想像しながら、飲む人の心と体が安らぐようにと祈りを込めて作ってきました。
「こんなに素晴らしいものなのだから、きっと伝わるはず」
そう信じていたのに、現実は厳しいものでした。お店はいつも静かで、私はまるで深い霧の中にひとり取り残されたような気持ちでした。
「私のやっていることは、ただの独りよがりなのかもしれない…」
その疑念が、霧をさらに濃くしていくのでした。
空白のままの「未来予想図」
ある日の午後、私は店の奥で帳簿とにらめっこしていました。
傍らには、先日ダウンロードした「事業計画書」のテンプレート。その中の一つの項目が、私の心をえぐりました。
【お客様が得る価値(未来予想図):_______】
ペンを持ったまま、手が固まってしまいました。
頭の中では「健康になる」「リラックスできる」という言葉が浮かぶのに、それをこの四角い枠に書き込むことが、ひどく空々しいことに思えたのです。
まるで、お客様の心を無視して、自分の理想を書きなぐるような気がして。
その空白の枠は、私のビジネスの「穴」そのものを突きつけているようでした。 私はペンを置き、吸い寄せられるように、近くの漆器店「杉浦漆器」の、年季の入った木の扉へと向かいました。
賢人の問い ―「この器の価値は、いくらかな?」
「杉浦さん、こんにちは」
店の主である杉浦さんは、黙々と漆の器を磨いていましたが、私に気づくと、ふっと柔和な笑みを浮かべました。80歳を超えてもなお、その背筋はすっと伸びています。
「どうしたね、ひかりさん。また霧の中かい?」
私は、自分の宝物たちが誰にも届かないことの苦しさ、そして、あの空白の計画書のことを打ち明けました。
杉浦さんは静かに話を聞いた後、磨いていた一つの椀を手に取り、私に差し出しました。
「ひかりさん。この器の価値は、いくらに見えるかね?」
それは、どこにでもあるような、黒く滑らかな漆の椀でした。私は正直に、思いついた値段を口にしました。
すると、杉浦さんはゆっくりと首を横に振りました。
「では、こう考えてごらん」
彼は静かに語り始めました。
「この漆は、山の神様が宿ると言われる木から、一滴一滴いただいたものだとしたら? 職人が一年という季節をかけて、百回以上も漆を塗り重ね、ようやくこの深い艶が生まれたとしたら? そして、この器は使うほどに色と艶を増し、あなたの家族の物語を刻みながら、百年先まで受け継がれていくとしたら…?」
器は、私の手の中にあります。
形も、重さも、何も変わらない。
けれど、私の頭の中で、この器の価値は計り知れないほど大きなものに変わっていました。
「…器は、何も変わっていないだろう?」と杉浦さんは続けました。
「変わったのは、君の頭の中にある、この器への**『認識』**だ。価値というものは、モノ自体に宿っているだけではない。相手の頭の中に、その物語が、意味が、きちんと届けられて初めて生まれるものなんだよ」
その言葉は、まるで雷のように私の心を打ちました。
「君は、素晴らしいお茶を淹れることに心を尽くしてきた。だが、お客様の心の中に、そのお茶の物語をそっと淹れてあげることを忘れていたんじゃないかね。君が売っていたのは、素晴らしいお茶の**『幻』**だったのかもしれんよ」
「幻」を「本物」に変えるために
杉浦さんの店を出た時、私を包んでいた濃い霧は、すっかり晴れていました。
店に戻り、私は自分の宝物たちを、まるで初めて見るかのように見つめました。そして、「月夜のしずく」というブレンドを手に取ります。
以前の私は、ただ「カモミール、リンデン、ラベンダー…」と材料を書き連ねるだけでした。でも、今の私には、伝えなければならない物語がありました。
私は、新しいカードにペンを走らせました。
『月夜のしずく ― 一日の喧騒が遠ざかり、静寂が心に満ちる、その瞬間のために。松本の澄んだ月明かりを浴びて育ったカモミールが、あなたを優しい眠りへと誘います』
商品をただ棚に並べるだけでは、それは「幻」でしかない。
その価値と物語を、心を込めてお客様の頭の中に届けること。
それは「傲慢」などではなく、作り手である私の、最も大切な「責任」なのだと、今はっきりとわかります。
あなたの棚にも、まだお客様に見つけられていない、美しい「幻」が眠ってはいませんか?
私も、今日から宝物たちに命を吹き込む旅を始めます。 この旅の途中で見つけた、もう一つの大きな「気づき」については、また次のお話で。
聴講生になって無料で学ぶ
(Amazonで販売中)
聴講生になるには、メルマガに登録することで自動的に無料で聴講生になります。
聴講生には毎週、ブログから抜粋した解説記事や聴講生限定の案内を致します。