物語で読むコーチングの気づき|第二話「ガラスの小瓶と、心の中の庭」

高橋誠に週末のクラスを託す電話を終えた後、佐藤恵の心は久しぶりに軽やかだった。長年一人で守ってきた庭園の門を開け、新しい風を入れる。その決断は、彼女に安堵と、かすかな興奮をもたらしていた。
しかし、新たな課題はすぐそこに待ち受けていた。
「さて、生徒さんたちにどう伝えよう…」
問題は、高橋がクラスを担当すること自体ではない。どうすれば、主宰者である恵自身が教えていなくても、「ミントガーデン」の価値は変わらないと、生徒たちに信じてもらえるだろうか。
恵は考えた。
「ミントガーデン」の価値の源泉、それは門外不出のハーブブレンドのレシピであり、長年の経験から編み出したカリキュラム、そして彼女が選び抜いた高品質な教材だ。それこそが、他にはない絶対的な価値のはずだった。
「そうだわ。この『魔法』を、完璧に高橋さんへ引き継がなくちゃ」
彼女は分厚いノートを開き、完璧なマニュアル作りにとりかかった。ハーブを摘む時の指の角度から、生徒にかける言葉の選び方、お茶を淹れる湯の温度まで、自分の分身を作り上げるかのように、細かく、精密に。
だが、書けば書くほど、恵の心は重くなっていく。
こんなもので、本当にあの教室の空気感、あの価値が伝わるのだろうか。不安に駆られた彼女は、再び老コーチの書斎の扉を叩いていた。
あなたが本当に売っているもの
「なるほど。君は、自分の教室の価値が、その美しい『ガラスの小瓶』の中身にあると、そう思っているのだね」
恵が持参した、完成しかけていた分厚いマニュアルをパラパラとめくりながら、老コーチは言った。
「ええ。このハーブの配合こそが、私の教室の心臓部ですから」 恵が力強く答えると、コーチは穏やかに首を振った。
「では聞くが、生徒さんたちは、その小瓶が欲しくて君の元へ来るのかね?ハーブそのものが欲しいだけなら、もっと安く手に入る店はいくらでもあるだろう」
「それは…」
「君が本当に売っているものは、その小瓶ではない。君が売っているのは、**『その小瓶を使うことで手に入る、理想の未来』**そのものだよ」
コーチは、まるで情景を思い浮かべるように続けた。
「夜泣きする赤ん坊を、そのハーブで淹れたお茶で優しくなだめることができる、母親としての自信。季節の変わり目にいつも寝込んでいた自分が、元気に散歩に出かけられる喜び。大切な友人へ、心を込めた手作りの贈り物を渡す時の、誇らしい気持ち…。君が売っているのは、モノではなく、物語であり、感情なのだよ」
価値は「頭の中」に生まれる
恵は、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。
そうだ、生徒さんたちはハーブを買いに来ているのではなかった。彼女たちは、自分の人生をより豊かに、より穏やかに変えるための「鍵」を探しに来ていたのだ。
「いいかね、佐藤さん。商売の価値というのは、商品そのものには宿らない。それはいつだって、お客様の『頭の中』に生まれるものだ」
コーチは、一枚の紙に人の顔を描いた。
「君の仕事は、その人の頭の中に、理想の未来をありありと描いてあげること。そして、君の商品が、その未来へ続く確かな扉であることを、信じさせてあげることだ」
そしてコーチは、顧客の心を動かし、行動へと導くための、シンプルで強力な2つの魔法の呪文を教えてくれた。
一つは、**「あなたの人生は、こう変わります」と、未来の物語を語りかけること。
もう一つは、「さあ、次はこちらへどうぞ」**と、その扉までの道を優しく照らし、手を引いてあげること。
庭師から、物語の案内人へ
書斎からの帰り道、恵はあれほどこだわっていた分厚いマニュアルのことが、どうでもよくなっていた。
「ミントガーデン」の価値は、恵という一人のカリスマ庭師の技術にあるのではなかった。その価値は、**生徒一人ひとりの心の中に、自分だけの美しい庭を育むことができるという『約束』**にこそあったのだ。
その約束を果たす案内人が、恵自身であろうと、高橋誠であろうと、本質的には関係ない。大事なのは、訪れた人が迷うことなく、心の中の庭園にたどり着けるよう、最高の体験を「デザイン」すること。
教室に戻った恵は、マニュアルを脇に置き、代わりに真っ白な紙を高橋の前に広げた。
「高橋さん、私たちが生徒さんたちに届けたいのは、どんな『物語』かしら?」
二人の会話は、もはやレシピや手順の話ではなかった。それは、生徒たちの人生を豊かに彩る、新しい物語の始まりを告げる、創造的な対話だった。
恵はもはや、自分の庭を守るだけの庭師ではなかった。
まだ見ぬ豊かな森へと人々をいざなう、物語の案内人へと生まれ変わった瞬間だった。
(第三話へつづく)
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